子どもの頃の記憶があまりない。
幼少期も思春期も、断片的な記憶はあれど、連続して残っている記憶がほとんどない。
ないことにしている、というほうが正しいかもしれない。
過去の自分が好きではないから、意図して思い出さないようにしている可能性が高い。
過去を遡ることは追体験であり、そのたびに当時の自分の至らなさや愚かさを思い知らされる行為だ。
わたしは、今のわたしが嫌いではない。
わたしは、昔のわたしが嫌いである。
だから、昔の記憶があまりない。ことにしている。
過去をあるものとするとき、大体において本や映画がセットになって思い出される。
多くを読み鑑賞してきたわけではないが、その時々のわたしを生かし逃がし救ってくれた物語たち。
振り返ればなんてことない悩みや思考に支配され、視野狭窄に陥ってしまいがちな時に「あれがあったおかげで」という経験を持っている人は少なくないと思う。
人生で最初にその経験をした時、わたしの手にあったのが『エルマーのぼうけんシリーズ』だ。
『エルマーのぼうけん』は三冊からなるシリーズ小説だ。
9歳の男の子が、自分の生活の中で手に入れられる些細なもの(お菓子や輪ゴム、長靴にリボンなど)を大きなリュックに詰め込んで、船に潜り込んでりゅうを助けに行く。
動物と話せたり、りゅうがいたり、不思議な世界ではあるけれど、魔法が使えるわけではない。
一発逆転のスペシャルグッズだって出てこない。
エルマーは自分の頭で考えて、知恵と勇気と工夫で数々のピンチを乗り越えていく。
幼いわたしの頭と心は、いっぱいになった。
工夫を詰め込める大きなリュックと、ちょっとの勇気と、考える事をやめない頭があれば、わたしもここじゃないどこかへ踏み出せるだろうか。
わたしじゃないわたしに……エルマーに、なれるだろうか。
初めて『エルマーとりゅう』を読んだ夜。確か、小学校低学年だったと思う。
家にあったリュックに、みかんや文房具や髪ゴムを詰め込んだのを覚えている。
家族に見つかりたくなくて、一番大きなリュックは持ち出せなかったし、長靴をこっそり取ってくることも出来なかった。
考えなしに詰め込んだ中身では、きっと到底ピンチを切り開くなんてできっこない。
けれど、このリュックがあれば、わたしはエルマーになれるかもしれない。
そうやって、リュックを抱えた夜は少しだけ心が落ち着いたし、実際にリュックを背負ってこっそり家を抜け出して、徒歩1分の公園に行った記憶もある。
いつも目にしていた遊具たちが、夜は全く別の物に見えて、リュックの肩紐をぎゅっと握りしめながらすぐに帰ったけれど。
家族の名誉のために言っておくが、安全で健全な環境下で養育されていたし、十分な愛情だってもらっていた。
ただ、何と言ったらいいのか、うーん。
色んな事に対して少しだけ過剰で、いっぱいになってしまう子どもだったんだと思う。
そのくせ見栄っ張りなところがあるので(これは多分今もそう)、周りに気付かれまいとしているうちに、もっといっぱいになってしまう。
そんな子どもだったような気がする。
日々を過ごすうちに『自分は誰かになることはできない』『自分を受け入れて生きていかなければいけない』ということに気付いていく。
その過程でも、何度だって読み返したし、自分で考えて道を切り開くエルマーはやっぱり憧れだった。
わたしが『自分で考える事』を大切にしている根源を辿っていくと、あの日に出会ったエルマーがいる。
過去の自分が好きだと言える日は、きっとこない。
でも、記憶の中に『エルマーのぼうけん』を残してくれた事に感謝している。
他にもいくつか、お守りのような道しるべのような物語*1を、記憶のしおりにしてくれたことも感謝している。
こうした小さな積み重ねで、わたしは今のわたしを嫌わずに生きていられるのだろうと思う。
わたしの家の玄関には、昨年開催された「エルマーのぼうけん」展で購入したグッズと本が飾られている。
あの日、考えなしに詰め込んだものでパンパンになったリュックでは、どこにも行けなかった。
けれど、いっぱいいっぱいになりながら生きてきた今日までの人生は、結構いい感じだ。
エルマーを真似るんじゃなく、わたしが考えて選んだものを詰め込んで『わたしのリュック』を作っていこうと思う。
今週のお題「好きな小説」
*1:いつか、他の物語についても紹介出来たらいいなと思う